バカが馬鹿を嘆くコラム

勝谷氏はコラムニストでした・・・先週亡くなりました。
時々テレビに出たりラジオ等で言いたい放題の方だったのでいろいろ波乱があったようです。
彼が新潮に寄稿した記事をご紹介します。
私としては勝谷氏の発言には何も意見はありません。ただ、彼の考えそして普通のことを言ってたからです。

私の母(86歳I)と話してる時に母が勝谷氏のファンだったということを知り驚きました。母の教育方針?(そんなものは何もなくすべて自由にさせてくれました)。18歳で日本を出るときに心配はしてたでしょうが反対はしませんでした。両親が私の若すぎる海外渡航に反対しても私はそれを無視すると知ってたからです。

バカという言葉は日常よく耳にしますが使われた方はいい気がしません。
かろうじて川生”おバカさんね”と言われたら優しい表現かもしれませんが外国人、ロシア妻に対してバカという言葉は大問題になるので使わないでください。

バカという日本語、その他の日本語は日本語を勉強した人たちがすぐに覚えるのはバカという言葉です。
軽い気持ちでロシア妻に使えば想像できない反応が必ず出るはずです。試してくださいとは言えませんがいつの日にか自然に口からでるのでその時にこのアドバイスを思い出してください。

私が言った バカという言葉は本当のバカではなく・・・言い訳は通用しませんし言い訳できないはずです。実際に瞬間的でもバカと思って出た言葉ですので。

勝谷氏はバカだってのでしょうか?学歴的には灘高校を卒業してます。
■バカな私が日々嘆くニッポンのバカ基準

勝谷誠彦氏
バカとは社会的常識に欠けた存在である。社会生活はバカでない者を基準にすればいいものを、バカを標準としているのが今の日本。バカに合わせたらそうでない者が迷惑する。それを「バカ基準」と命名した勝谷誠彦氏が近年益々、劣化するバカ実態に警鐘を鳴らす。

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最初に断っておくが、私はかなりのバカである。そこらじゅうで頷いている友人知人、おね~ちゃん(見栄)の姿が見える。「ばっかじゃないの」と言われることが日常茶飯事だ。

いいのであるそれで。「ばっかじゃないの」のひとことで私は「慮外者(りょがいもの)」となる。この日本語はまことに美しく「自分たちの常識や価値観から外れたひとびと」を優しく、笑いながら見守っているという価値観がある。そこには差別も多少はあるかもしれないが、多くは区別だ。「あっちの世界のひとたち」として棲み分けをしているのだ。

ところが最近、いや、かなり前からこの垣根が壊れてきてしまったような気がして私はならない。「あのひとはアレだから」と別のところにいたのが「あのひと」を良民常民の中に入れてしまって、彼ら彼女らが助かるように基準そのものをかえてしまっているのだ。バカを代表して言わせていただくと、これはたいへんに申し訳ない。バカとしてはいたたまれない。

バカではあるが、そのへんのバカと一緒に銀行のATMで「携帯電話のご使用はお控え下さい」と言われたり、コンビニで「ポイントカードはお持ちですか」と言われるのが、どうも気に食わないのだ。私は別種のバカであって、種族が違うと言いたい。わからないか。しかし、今回はそういうことについて書く。「バカ基準とは何か」ということだ。

■「死んだらええやん」が口癖
これを機にバカについてちょっと考えた。私が最初に気づいたのはまだ小学校に上がる前だったかも知れない。エスカレーターに乗っていると、のべつまくなしにアナウンスがかかる。みなさんにも記憶があるだろう。「良い子のみなさん……」でたいがい始まるのである。そのころから根性がひねくれていた私は「良い子やないから聞かんでええやろ」と考えていた。

続いて「体を乗り出したりすると大変危険です。やめましょうね」。アホか、と心から思った。体を乗り出したら壁との間にはさまれて死ぬということは、わかりきったことやろ。そんなアホ、死んだらええやんけ(関西の中でも下品な尼崎市で育ったのです。すみません)。そういうところで育ったので、そういう考えを持ったのだろう。

同じく子どものころに「なんでやろ」と首を捻っていたのが国鉄の「危ないので白線の内側に下がって下さい」だ。命がおしければ、誰だって下がるだろう。毎日何十回もそれを言っている職員は疑問を感じないのか。「死んだらええやん」はずっと私の口癖であった。

実はこの「死んだらええやん」は「バカ基準」と裏表なのである。自分に責任を持てないバカは「死んだらええやん」。社会としてはバカがひとり減って、コストが下がる。

海外での仕事が増えたころ、私はこれに確信を持った。「あなたの責任において、このエレベーターに乗りなさい」的な表示が多いのだ。もちろん、訴訟社会において、オーナーがややこしいことをさけるためなのだが、そこにある意味の矜持を感じた。私は耶蘇の徒は余り好きではないが、イスラエルの沙漠は好きで、考えの基本はなんとなくわかるものである。

「そうだろうな」と感じた。まあまあ、なあなあはないのである。バカに対して彼らは「お前はバカだ」とハッキリと言う。言われたものは、自分がバカでないということを反証しなくてはいけない。これがなかなか難しい。バカだと決めつけるのは簡単だが、バカではないと言うには「偉ぶらなくて」はいけない。私も所属している吉本興業が楽なのは、ほんわかほんわ、ほんわかほんわと、アホの音楽を流して「アホですからあ」から始まっているからだ。あざとい商売と言うほかはない。

■還暦が未成年に見えるか!
だが、この程度ならまだよかった。地下鉄ホームには白線どころか、スマホを覗きながら歩くバカの目の端にも入るようにと紅白の注意喚起シートを貼り付けた。大マスコミはベビーカー事故を受けて、などと報じたが東京メトロは歩行中のお客様の線路内への転落防止と謳っている。ことほど左様にバカのレベルが落ちてきている。

また、私が歳をとって丸くなったことを特にコンビニ各社は感謝するべきだ。「20歳以上である」のボタンを押せとゆる口のしんどいバイトが言う。見たらわかるだろうと。それ以前に、私が現れたとたんに「あっ、カツヤさんや」とかビビッているのである。それでもポチッとな、をする。何をさせられとんねん、たかだかコンビニのチェーンに、だ。

以前、梅沢富美男さんとその話をしたことがある。「あたしが、女に見えるというなら許すわよ。だけど、この還暦の私が、どこが未成年なのよ。言ってみなさい」とタンカを切ったそうだ。さすがだが、それでもポチッとせざるをえない。気の毒なバイトの少年たちは責任をとれないのだから。

長くなった。「バカ基準」としてはいちばんわかりやすいと思ったので。誰も責任をとりたくないのである。だからいちばんバカに責任をとらせることなど無理だと知っておいた方がいい。

みなさんがいちばん毎日触れているというか、いやなシャワーを浴びているのが、鉄道の放送だろう。「白線の内側までお下がり下さい」「入ってくる列車の風圧に押されることがあるので、気をつけて下さい」。そんなもので死ぬ奴は死ねばいいのである。社会におけるコストとしては安くなっていいと私は考える。まさにバカを排斥しないバカ基準の典型だろう。

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■バカな私が日々嘆くニッポンのバカ基準

勝谷誠彦氏
「私はかなりのバカである」。自身をこう称する勝谷誠彦氏が嘆くのは、“バカを基準”とした日本社会の姿だ。例えば、「危ないので白線の内側に下がって下さい」「入ってくる列車の風圧に押されることがあるので、気をつけて下さい」の鉄道放送。氏に言わせれば、「そんなもので死ぬ奴は死ねばいい――」。

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「淘汰」をタブーだとしたのが「バカ基準」の原点だ。どんな動物の社会でも「淘汰」はある。私にとってはどうでもいいのだが、人類は文明を築いてきて、弱者を助ける仕組みを作った。それはそれであってしかるべきだろう。しかし通常の社会に適応すると考えて動いている連中に、どこまで手をさしのべるべきか。あまたの国を歩いてきたが「助けて」と言う人々には優しい。しかし一人前の社会人として出勤する連中に「風圧に気をつけて下さい」とは言わない。過剰と言うべきである。

やや外れているようだが実は外れていない。「バカ基準」の基本はそのあたりにありそうなのである。今の日本国は「誰でも手をさしのべて助けてあげる」ようになっている。それははたして、社会全体として幸せだろうか。そのために「みんなが平等だよ」と基準をバカのレベルに下げている。よろしくない。バカにはバカと言ってあげる方が、相手の人生にとってもよろしいかと私は思う。

正しいバカの使い方
バカというのはあくまでもこちらの価値観であって「なにくそ」と思えば、私たちにバカだと思われない生き方をすればいいのである。私はそれを大いに認めるものであって、日本史の上でもかかるリベンジをしてきた英雄は多い。

バカという言葉を蔑視だと考えるのがいけないのだ。「あいつバカだね」と私は子どものころから言われてきたが、最大の賛辞だと考えていた。本当のバカは突き抜けている。ところがその正しいバカの使い方を今の日本国はできていない。

「ダメな意味のバカ」をまず認識することだ。それをひとつのラインとして「バカ基準」を作る。ひとつ提案するなら「あいつ、ライン以下のバカだね」ということは、このことを意味する。「あいつバカだね」のある意味の賛辞とは違う。この「バカの意味」についてはどんどん論議をしていただきたい。

バカに媚びるな
バカ基準が突き抜けると次のバカを生む。ATMの「暗証番号に誕生日などはおやめ下さい」という表示などは、まったく余計なお世話である。敢えてそうしているひとだっているだろうよ。もう、実際の入力までにいくつもそういう表示が出る。「バカ基準によって、大切な時間が使われている」ということだ。バカはバカでそこで騙されればいいのだ。自業自得である。なぜ、良民常民までが、バカの時間につきあわなくてはいけないのか。

詐欺が連発すれば「これだけ言われているのに、まだ騙されている『愚民』への世界の嘲笑」と、タイトルまでちゃんと考えてあげて、私が「週刊新潮」に書く。国を出れば、もっとシビアなところで自分を護らなくてはいけない。そんなもんでとられるカネは授業料だと思っておけ。

うん、これがかなり私の「バカ基準」に近いのかも知れない。朝日新聞などは「良民常民基準」なのだが、そんなにみんな賢くない。「バカ」とはバカにしているのではなく「こんなもんなんだよ」だ。そこと比べてどうなのかなあ、という意識は私の中にある。ところが、朝日などはいつもは違うくせに自分を持ち上げるところでこっちを持ちだして来る。だから「バカ基準」。長い原稿なので書いているうちに揺れてきたなあ。決して「バカ」をバカにしていないという自覚はあったが、かくも愛して、こだわっていたか。

「バカ基準」をいろいろ考えているのが、いちばん「バカにつきあっている」のではないか。ひとはそれぞれ自分で身を守るのが原則だ。たとえば私が知る海外の国々には「バカ基準」はない。「バカなひとびと」はいて、バカにされているだけだ。しかし日本国では「バカなひとびと」と呼ぶのはタブーである。その「ひとびと」の基準が、すべてに当てはめられているのが「バカ基準」ではないか。

基準線を引く
「バカ基準」という言い方は自分でも品がないと思う。しかし、若干、真っ直ぐだとも思う。表立って使うことはなくとも「でもこれ、バカ基準だよね」と心の底で思うひとびとが出てくれば面白いなあと、コラムニストは考えるのである。

基準線を引くのが、大マスコミであるのは力を持っているから当然だが、私たちの心の中でも引くことができればいいのではないか。「これ、バカ基準だよね」という会話はなかなかしにくいのかなあ。「どうして、こんなことをいちいちチェックするの」という思いは日々、あるだろう。それこそが「バカ基準」への入口なのである。

本誌(「週刊新潮」)でもそうだ。誰かが「それ、おかしいんじゃないの?」、もう一歩踏み込んで「バカに媚びすぎじゃない?」。そのひとことが文化文明を維持していくのである。敢えて、言っておくことにする。

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