さらばモスクワ愚連隊

 ソ連時代のモスクワは、私たち日本人にははるかな遠い街だった。クレムリン宮殿、モスクワ芸術座、赤の広場、秘密警察。そんなイメージがきれぎれに浮かぶ。

 一九六五年の初夏、私はそのモスクワにいた。横浜からバイカル号という船に乗って、ナホトカから入国したのだ。ブレジネフ政権下のソ連は、まだ雪どけの気配もなく、共産主義国家の緊張感を漂わせていた。

 その季節、モスクワの街には、トーポリという柳の白い綿毛が風にのって飛んでゆく。大通りをゆきかう市民たちの表情には、長い冬から解放されたよろこびの気配があふれていた。

 モスクワ滞在中、私はほとんど定番の観光コースに足を向けなかった。若い頃からの夜行性で、暗くなると活動しはじめるのである。夜の街角で話しかけてきたチンピラ少年たちと仲よくなり、持参したレコードを売ったり、闇ドルをルーブルに交換したりの取引きをした。彼らは私が見せたボブ・ディランのLPに夢中になり、かなりの金額で購入してくれたのである。

 もちろん、それは非合法の取引きだった。民警はもとより、ピオネール(共産主義少年団)の連中にみつかってもただではすまない。しかし、そんな危険を共有することで、私は彼ら非行少年たちと仲間意識めいたかすかな感情の交流を持つこととなった。

 彼らはスチリャーガと呼ばれていた。不良少年とか、愚連隊とか、そういった感じだろう。ロシアにはブラートヌイという、本格的なアウトローの伝統があるが、彼らはそんな筋金入りのやくざとはちがう共産国家の落ちこぼれだ。しかし、彼らの気質には、おさえきれない自由への渇仰と反権力の気質が感じられた。

 私は彼らに連れられて、モスクワの場末の酒場に案内された。シーニャヤ・プチーツア(青い鳥)というライブハウスもその一軒だった。そこでは時代おくれのディキシーランド・ジャズをやっており、私が学生時代によく聴いた曲をくり返し演奏した。

 彼らと一緒にモスクワ競馬にもいった。モスクワ競馬にも非合法のノミ屋がいて、八百長があるらしいことも知った。

  • 1965年夏、モスクワのカフェにて、モスクワ愚連隊のミーシャのモデルになった少年(右)と五木さん(中央)
    1965年夏、モスクワのカフェにて、モスクワ愚連隊のミーシャのモデルになった少年(右)と五木さん(中央)

 そんなモスクワの休日は、一週間もたたぬうちに終った。スチリャーガたちの数人が逮捕されたのだ。以前から目をつけられていたのかもしれないし、観光客にはあるまじき旅行者の私の行動がマークされていたのかもしれない。夜の街をさがしたが、だれにも会えなかった。私はモスクワを離れて、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)へ向った。

 

ふーん・・・という内容です。
実際にロシア船で同じルートで旅をした人なら私と同じふーん、でしょうね。
当時のソ連旅行は日程は1週間で日本を出て第三国に7日目に到着するのがルールだったのでモスクワで1週間は過ごせません。

モスクワの若者と場末の酒場・・・当時はそんなものはありません。
ましてや一般ロシア人が外国人と話をすることは禁じられて時代です。警察や民警に見つかれば捕まる時代でした。

1970年代のモスクワではセイコーの腕時計が人気で道で近づいてきたロシア人が小さな声で ”カイタイセイコー”と声を何回もかけられました。
当時一緒だった日本からの旅行者が同じ体験をして彼はセイコーを持ってなかったけどタイメックスの時計をうったそうで貰ったロシアルーブルで一緒だった日本人たちをモスクワでは高いホテル、ペキンホテルのレストランで食事をしたようです。

私は五木寛之氏には何恨みもありませんが青年は荒野を目指すを読んで実際に同じ航路、ハバロフスクからモスクワへアエロフロートで飛んだ男性たちは甘い期待を抱いてたのでしょう・・・。当時、ネットがあればこの作家はどうなったでしょう・・・。本人に聞いてみたいです。